名雪の憂鬱
「前が・・・だったから、はぁー、おくれてるなー。うーん・・・」
朝、起きて名雪を起こし行くと部屋の中からそんな声が聞こえてきた。
名雪の部屋から、名雪の声が聞こえてくるのは当たり前のことで、なんら不思議なことは無い。
今、この時が朝だという事を除けば。まあ、たまには起きてる事があっても不思議ではないか。
半分自分に言い聞かせながら、とりあえずノックをして声をかける。
「名雪、起きてるのか?」
「えっ、あ、祐一。起きてるよ。今、着替えてるから先に下に行ってて」
「判った。でも、間違っても二度寝だけはするなよ」
「大丈夫だよ、信頼してよ」
「安心しろ。ちゃんと信頼してるよ。お前は半分寝ながらでも返事ができるし、二度寝したらなかなか起きないって」
「うん。って、それは信頼してないんじゃないかな。祐一、もしかして結構、酷い事言ってない?」
「そんな事はないぞ。気のせいだから、早く支度して降りて来いよ」
「う〜ん。気のせいじゃないと思うんだけど・・・」
俺は最後まで聞かずに下へと降り、秋子さんと挨拶を交わす。
秋子さんが朝食の準備をしている間に名雪も降りてきて席に着く。
「あーあ、今日からまた学校が始まるのか」
「そうだよ、祐一。それに今日から三年生だよ」
「はぁー。もう、三年か。なんか、あっという間だったな」
「うん。色々あったからね。それに祐一は二年生の三学期に転校して来たから、よけいにそう思うんだよ」
確かに名雪の言うとおり、色々あったから時間が早く過ぎた感じはする。
しかし、転校しようがしまいが3年間は3年間だと思うのだが。
「しかし、よく無事に進級できたよな、お互いに」
「うん。毎日遅くまで勉強した甲斐があったね」
「確かにな」
「ふふふ、二人とも毎日頑張っていましたもんね」
「うん、その甲斐あって無事に進級できたしね」
「私はてっきり、二人きりになる為の口実かと思ってたんですけど」
「あ、秋子さん」
「お、お母さん」
「冗談ですよ。だから、そんなに慌てなくても良いですよ」
いつもの笑顔を浮かべながら秋子さんはそう言うが、俺にはその笑顔が"全てお見通しですよ"と言われている気がしてならない。
身に覚えがなければ問題ないんだが、かなりどころか、ほとんど正解なだけに居心地が悪い。
一応、勉強もしていたんだが、と一人心の中で言い訳をしてみる。
まあ、秋子さんに名雪との事を隠すつもりは無いのだが、なんとなく言いそびれたまま現在に至っている。
いつか機会をみて、改めて言えばいいか。
「あら、祐一さんどうかしました?何か考え事ですか?」
「いえ、別に何でもありません。いただきます」
いつの間にか用意されていた朝食に手を付ける。
名雪の方を見ると、既に食べ始めていたりする。
「あれ、名雪。珍しいな、お前がイチゴジャム以外のものをつけてるなんて」
「私だってイチゴジャム以外のものをつけることもあるよ」
「そうかー。俺の知る限りないぞ」
「むむむ。そんな事、ないもん。祐一が忘れてるだけだよ」
「うーん。やっぱり記憶にないが、まあいいか。所で、それはなんだ?」
「これ?これはね、ぶどうだよ。祐一も食べてみる?」
「だから、俺は甘いのが苦手だって言ってるだろ」
「大丈夫だよ。これは酸っぱいから」
「へぇー、じゃあ一口貰おうかな」
「はい、どうぞ」
名雪の差し出したトーストを少し齧る。
「へぇー、本当に酸っぱいな」
「でしょ。祐一もこれを食べる?」
「いや、俺はいいよ」
「ふーん、まあいいけど」
「ふふふふふ」
「どうしました、秋子さん」
「いえ、あまりにも仲が良いもんですから、つい。でも、名雪。
あなた、酸っぱいの苦手じゃなかったかしら」
「え、そんな事ないよ。このジャムおいしいもん」
「そう、ありがとう。じゃあ、とっておきのジャムがあるから、それも出してあげましょうか?」
「わわわ、それはいいよ。これで充分だよ。それにもう食べ終わるし」
「名雪、俺は玄関で待ってるか早く来いよ」
「ゆ、祐一、待ってよ」
「あ、名雪ちょっと待って」
「わ、何、お母さん。引っ張らないでよ」
どうやら名雪は秋子さんに捕まってしまったようだ。
「名雪。あなたもしかして、体がだるかったり、その、・・・おくれてたりしてない?」
「わ、なんで」
「─────」
「─────」
この後、何か話をしていたみたいだが、ジャムの犠牲になるのが嫌なので足早に玄関へと向かう。
待つことしばし。
「お待たせ、祐一」
「おう。じゃあ、行くか」
「うん。お母さん、いってきます」
「秋子さん、いってきます」
「いってらっしゃい、名雪。
あ、祐一さん。ちょっといいですか」
名雪に続いて外へ出ようとした所を呼び止められる。
「なんですか?秋子さん」
「ええ、実は名雪のことなんですけど」
「名雪がどうかしましたか」
「あまり激しい運動をさせないで下さいね」
「は、はぁ」
言っている事がよく判らないが、とりあえず頷く。
「判りました。今日は時間に余裕がありますから、走ったりはしませんよ。
だから安心してください」
「ええ、それではお願いしますね」
「それじゃ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
表で待っていた名雪と一緒に学校へと続く道を歩く。
「今日は余裕だね、祐一」
「これが当たり前なんだよ。それにしても、今日はよく起きれたな」
「うん。だって今日は始業式だしね。始業式の日ぐらいはゆっくりと歩いて行きたいでしょ」
「できれば始業式の日だけでなく、毎日こうして歩いて行きたいんだが」
「うぅぅー。努力はしてるよ」
「十の努力より一の結果が欲しいぞ、俺は」
「が、頑張ってみるよ」
「冗談だ。名雪の眠り病は、今に始まった事じゃないしな」
「眠り病は酷いよ。それじゃ私が病気みたいじゃない」
「いや、もうあれは一種の病気・・・って冗談だ。そんな顔するな」
名雪は今にも泣き出しそうな顔をして睨んでくる。
「祐一、やっぱり意地悪だよ」
「ほぉー。そんな事を言うのは、この口か」
名雪の口を両側から引っ張る。
「い、いひゃいよ、ひゅういひ」
「ったく、起こす方の身にもなってみろよ」
言って、名雪の口から手を離してやる。
名雪はほっぺたを撫でながら口を開く。
「それは悪いとは思ってるよ。でも眠り病は酷いよ。せめて可愛らしく眠り姫とかにしてよ」
「くっくっく、ふ、ふ・・・はぁっははははは。ね、眠り姫っ。はっはははっは」
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
「わ、悪い、悪い。なかなか言いえて妙だったから。
だったら、今度から起こすときはキスしないといけないな」
「えっ」
名雪の顔があっという間に赤くなっていく。
さらりと流せばいいのに、そんな反応をされるとこっちまで恥ずかしくなる。
「わ、私はそれでも良いというか、そっちの方が良いというか、その・・・」
うわー。その顔はほとんど反則だろ。ここが通学路ではなく人がいなかったら抱きしめていたかも。
「ま、まあ考えておこう。とりあえず、この話はここまでにしよう」
「う、うん。そうだね」
照れて少し赤くなっていると思われる顔を誤魔化す為、そっぽを向きながら名雪に答える。
あれ?辺りを少し見回し、再び隣の名雪を見る。
名雪はまだ照れているのか、赤い顔をして下を見ながら歩いている。
うーん、こうして見るとやっぱり可愛いな。
「名雪」
「え、なに、ゆうい・・・きゃっ」
名雪が返事をし終わる前に名雪を抱き寄せる。
「な、ちょっ、ちょっと祐一。人前でこれはちょっとダメだよ。あ、別にこうされるのが嫌っていう訳じゃなくて。
むしろ嬉しいんだけど・・・って、そ、そうじゃなくて、ほら、こんな所を見られて噂になったら困るというか。
べ、別に祐一と噂になるのが困るんじゃなくて、それは良いんだけど、だ、だから祐一が困るかなーって事で・・・」
「俺は別に困らないぞ」
「だ、だから、その、わ、私も良いんだよ。ただ、急にだったから驚いたのと少し恥ずかしいだけだから」
このままずっと見てても面白くて良いんだが、そろそろ教えてやるか。
「名雪。実は周りには誰もいない」
「え、本当っ」
「ああ、さっき確かめたから間違いない」
「あ、そうなんだ」
「そういうことだ。いくら俺でも、さすがに人前でこんな事はしないさ」
「もうー。だったらもっと早く教えてよ。そしたら、もっとゆっくりと感触を楽しむんだから」
「感触ってお前な。他に言い方はないのか」
「じゃあ、温もり」
「どっちにしろ恥ずかしい奴だな」
「別にいいよ。祐一とこういう事ができるんなら、恥ずかしくっても」
言って、今度は名雪の方から抱きついてくる。
うぅぅ、嬉しいんだがその、なんだ胸の感触が・・・。いかん、変な気になりそうだ。
「??どうしたの祐一?」
「名雪」
「ゆ・・・ういち・・・」
名雪が目を閉じるのを見ながら顔を近づけていく。
「えっ!名雪と相沢君!!」
俺と名雪は声のした方を同時に振り返る。そこには香里が立っており、驚いた顔をしてこっちを見ていた。
「ち、ちが、これは」
「そ、そうそう。違うのこれは」
「もしかして遅刻」
必死になってなんとか取り繕ろうとするが、香里はそんな事など気にしていないのか腕時計を見る。
「あれ、いつも通りの時間だわ」
「どういう意味、香里?」
「それは自分の胸に聞いてみなさい」
「うーーー」
「あ、もしかして、この時計遅れてるのかしら」
「いや、多分あってると思うぞ。今日は俺たちがいつもより早く来てるんだ」
「早く来てるって、これが普通の時間よ。あなたたちがおそいだけよ」
「複数形で言うな。複数形で。実際に遅いのは名雪だけだ。言うならば、俺は被害者だぞ」
「はいはい」
「ぐわっ、さらっと流しやがった」
「はぁー。気は済んだ、相沢君」
「おう。ばっちりだ」
「で、どうして今日は早いの」
「ああ、珍しく名雪が早く起きたんだよ」
「へぇー、あの名雪がねぇ。天気予報では、今日は一日中晴れって言ってたけど、雨が降るかもね」
「しまった。傘を持ってくるのを忘れた」
「本当ね。お昼まで天気もつかしら」
「うぅー、二人とも酷いよ。私だって早く起きる事もあるよ」
「ふーん。何か悩みでもあるの名雪」
「な、なんにもないよ。ただ、今日から三年生だからちゃんとしないとね。それだけだよ」
「ふーん」
そう言って香里は名雪の顔を凝視する。まるで全てお見通しよっと言わんばかりである。
名雪もなんか居心地が悪そうにしている。
「まあ、いいわ。そういう事にしておいてあげるわ。でも、名雪。
何かあったら私にちゃんと相談してね。私たち親友でしょ」
「うん、わかってるよ。香里ありがとう」
こうして二人のやり取りを見ていると、二人の仲の良さが改めて判るな。
もっともそんな事は口に出さないが。その代わりに口から出た言葉は、
「香里、よくそんな恥ずかしい事を言えるな」
だったりする辺り、俺の性格もなかなかのものだな。
所が香里はいつもみたいにすぐに反論をしてこず、口元に何か悪戯を思いついたかのような笑みを浮かべる。
「あなたたちが往来の真中でやってたことよりは、恥ずかしくないと思うけど」
「な、見てたのか」
「見てたの」
名雪と俺の声が重なる。香里は俺たちのその反応を面白そうに眺める。
「ええ、名雪と向かい合っている所をばっちりとね。なるほどね、やっぱり何かしてたのね」
「ち、ちがうぞ香里。あれは、あれは・・・そう、名雪の目にはいったゴミを取ってやったんだ。なあ、名雪」
「そ、そうだよ。目にゴミが入ったから取ってもらってただけだよ」
「その説明で説得力があると思う?」
「思いません。・・・・・で、でも未遂だぞ」
横で名雪がコクコクと頷く。
「あら、じゃあ私が声をかけなければ面白いものが見えたってことね。残念な事をしたわ」
「「香里〜〜〜」」
「冗談よ。でも、いくら周りに人がいないからって、あんな所でそんな事をするなんてねー。
なかなか出来る事じゃないわね。北川君にも教えてあげないと」
「おいっ、北川に言う気なのかっ」
「どうしようかしら。そう言えば今日から百花屋に新メニューができたらしいわよ」
こ、これは脅迫をいうやつか。香里は何も言わずにこっちをずっと見ている。
「わ、わかりました。奢らせて頂きます」
「あら、そう。ありがとう。でも、無理強いしたみたいで何か悪いわね」
「したみたいじゃなく、間違いなくしたんだが」
「何か言った?相沢君」
「いいえ、別に何も言ってません」
「そう、それならいいのよ」
「やったー。じゃあ、私はイチゴサンデーでお願い」
「ああ、判った・・・って、なんでお前の分まで奢らなきゃならないんだ」
「ええー。だって香里だけ奢るなんて酷いよ」
「いや、そうじゃなくてな。名雪、どういう事態になっているか判ってるか」
「???。事態って何?」
「はぁー」
「ねぇ、イチゴサンデー・・・」
名雪はとても悲しそうな顔をしてこっちを見てくる。
・・・・・
・・・
「わかったよ。名雪はイチゴサンデーで良いんだな」
「うんっ」
さっきまでの泣き出しそうな顔があっという間に、零れんばかりの笑顔にかわる。
その顔を見ていると、こっちまでも嬉しくなってくる。
そんな感情が顔に出ていたのか、香里がこっちを見ながら口を開く。
「相沢君、嬉しそうな所申し訳ないけど、ちょっと急がないと危ないわよ」
言って、自分の腕時計を見せてくる。
確かに急がないとまずい時間になっている。
「名雪、香里、急ぐぞ」
言って走り出した俺の後を名雪と香里も追ってくる。
「なんで。なんで時間がないの〜。私、早く起きたのに〜〜」
「知るかっ。しゃべってる暇があったら走れ。大体、名雪が珍しく早く起きるからこんな事になるんだ」
「祐一、それは変だよ。だっていつも通りに起きてても、走ることになるんだよ」
「あー、つまり、これはあれだ。あれ」
「あれってなに?」
「俺たちは走って学校に行く運命にあるってことだ」
「うーん。運命なら仕方がないね」
「あのね、はぁーはぁー、あなたたちの運命なら、はぁー、わ、私を巻き込まないでよね。
大体、はぁーはぁー、このペースで走ってて、はぁー、よく話せるわね」
「ああ、それはなれってやつだな」
「そうだね。毎日、こうやって登校してるからなれちゃったね」
「そうだな。こうしてみると人間の適応能力ってのは案外すごいものだな。
安心しろ香里。香里も毎日続ければ慣れると思うぞ」
「なにを安心するのっ、はぁー、よっ。こんな事に慣れたくないわよ。はーはー、私はいつも走らなくても余裕なのっ。はーはーはー」
「ほら、もう少しの辛抱だ。もう校舎が見えてきたぞ」
「間に合ったね祐一、香里」
「そうだな。確かクラスは二年から持ち越しだったよな」
「うん、だから今年も祐一や香里と一緒のクラスだよ」
「はぁー、はぁーはぁー」
「そうだな。だったら早いとこ教室に行こう。
ここでもたもたして、遅刻なんて事になったらここまで走ってきた努力が無駄になってしまう」
「そうだね。じゃあ、ラストスパートってとこだね」
「はぁー、はぁー。ま、まだ走るの・・・」
「さて行くか」
こうして何とかチャイムと同時に教室に着き、遅刻にはならずにすんだ。
なぜか香里には先生が来るまでの間、ずっと睨まれたままだったが。
◆◆◆
その日の放課後、俺は香里との約束の為、名雪、香里の三人で百花屋を訪れていた。
北川も誘ったんだが、バイトがあるとかで来れなかった。
それぞれが注文した物を口にしながら他愛のない話をする事しばし、話の切れ間に香里が名雪に話しかける。
「で、名雪。何を悩んでいるの」
「別に何も悩んでいないよ」
「嘘おっしゃい。だてに親友は名乗っていないつもりよ」
「話すだけでも楽になれるかもしれないわよ。ほらほら」
「本当に何もないよ」
しばらく無言のまま見つめ合う二人。
その時、俺の頭に名雪の朝の独り言と秋子さんとのやり取りが思い浮かび、それをそのまま伝える。
「おくれていると落ち込んだ上に、体がだるく酸っぱい物を欲しがったって事ね」
「おいおい、名雪まさか!?」
「相沢君っ!あなたなんて事をしてるのよ」
「ま、待て。誤解だ。身に覚えがない・・・こともないかも」
この返答がまずかった。香里は目を吊り上げると、俺の胸倉を掴み締め上げてくる。
「ぐっぇぐ、ぐるじいぃぃ」
「か、香里落ち着いて」
「あのね名雪。誰の為に・・・」
名雪はいつもののほほんとした顔をしたまま首をかしげる。
「???」
「ったく、もういいわ」
そんな名雪の態度に毒気を抜かれたのか、香里は掴んでいた手を離す。
そして、真剣な顔をして俺を見てくる。
「相沢君、責任とるんでしょうね」
この問いに対し、俺もめずらしく真剣な表情をしながら答える。
「当たり前だろう」
「なら、いいわ。当事者じゃない私がこれ以上言う事はないわ。よかったわね、名雪」
「?何がよかったの?」
「な、何って。相沢君が責任を取るって言ってるんだから、妊娠した事でもう悩まなくてもいいでしょ」
「ええぇぇぇ!わ、私妊娠なんてしてないよ」
「えっ。だっておくれているんでしょう」
「うん、最近、100mのタイムが前よりも遅れてるんだよ」
「体がだるいって」
「うん、だから春休みの部活中ずっと、いつもより練習量増やしたからね。だから体がだるくって」
「酸っぱい物っていうのは?あなた酸っぱい物苦手でしょう。なのに、なんで」
「それはね、ぶどうは気力回復やスタミナ増進に良いって聞いたから」
「「・・・・・」」
「あれ?どうしたの二人とも」
「いや、別に。なんかとっても疲れただけだ」
「右に同じよ」
「そうか、二人とも勘違いしてたんだね」
「まあ、勘違いで良かったよ」
「でも、祐一は責任を取ってくれるって言ったんだよね」
「おう。当たり前だろ」
「うん、とっても嬉しいよ」
その顔におもわず見惚れてしまう。残念だ。香里がいなかったら抱き寄せるぐらいはしたのに。
しばらくそうやってお互いに見つめ合っていたら、香里がわざとらしいほどの咳払いをする。
「ごほんっ。二人とも私がいること忘れてない」
まったく、結局私はなんなのよ。心配した挙句、勘違いをして怒って。
その上、最後には惚気られるなんてね。正に踏んだり蹴ったりだわ」
「ごめんね香里。でも、本気で心配してくれて嬉しかったよ」
そう言ってにっこりと笑う名雪。香里はしばらく呆気に取られていたが、不意に笑い出す。
「ふふふふふ」
「わっ、なんで?なんで笑うの?笑うなんて酷いよ、香里」
「ふふふ、ごめんなさい名雪。ただ、あなたには敵わないなって思っただけよ」
そう言って微笑む香里を、訳が判らないといった感じでただ眺める名雪。
「言ってる意味がよく判らないよ香里」
「別になんでもないのよ。名雪は今のままが名雪らしいってことよ。そして、そんな名雪が相沢君は好きってこと」
「な、何を言ってるの香里」
照れて顔を赤くする名雪を横目に見ながら、俺は香里の今の言葉を訂正する。
「それは違うぞ香里。俺はどんな名雪でも好き・・・いや、愛してるぞ」
「っっ」
更に赤くなる名雪を面白そうに見てから、香里は口を開く。
「それはそれは、ごちそうさま」
「おう、どういたしまして」
「さてと、とりあえず早いことここを出ましょうか。さっきから注目を浴びているみたいだし」
言われて周りを見渡すと、何人かの客がちらちらと横目でこちらを盗み見しているのが判る。
まあ、大声を上げて暴れていれば当然か。香里の言うとおり早く出るか。
「行くぞ、名雪」
名雪に声をかけ、伝票を持って席を立つ。
そして会計を済まして店を出る頃には夕方になっていた。結構な時間店にいたんだな。
「じゃあね、相沢君に名雪」
「ああ」
「バイバイ香里」
香里と別れて名雪と一緒に家へと帰る道を歩く。
「へへへ」
「なんだ名雪。突然笑い出して。不気味な奴だな」
「祐一、それは言いすぎだよ。それに、そんな私でも好きなんでしょ」
「っぐ。うるさい。それとこれとは別だ。大体、なんで突然笑い出す」
「だって、あの時の祐一の言葉を思い出すと、ふふふ、頬が勝手に緩むんだよ」
「勝手にやってろ」
俺は恥ずかしいのを誤魔化す為にそっぽを向きながら早足で歩き出す。
「えいっ」
掛け声と共に俺の左腕に重さが掛かる。見ると名雪が腕を絡めてきていた。
俺と目が合うと笑顔を浮かべてくる。まあ、別に重たい荷物を持っている訳でもないし、腕ぐらい良いか。
「祐一」
「なんだ、名雪」
「これからもずっと一緒にいてね」
「ああ、お前が嫌だって言っても一緒にいてやる」
「ふふふ。うん、ずっとずぅーーーと、一緒だよ」
夕日によってアスファルトに作られる二つの影が、元は一つだったというかのように一つに重なっていく。
ちなみにこの日の夕食は、勘違いした秋子さんの手によるかなり豪華な物だった・・・。
<あとがき>
どうも、お久しぶりです。氷瀬浩です。
今回のSSはキリ番を踏まれましたアイズさんからのリクエストです。
アイズさん、どうでしたか?
さて、本文にあったぶどうの話ですが、あれは生で食べるのが一番効率が良いんです。
ぶどうの甘さはブドウ糖と果糖によることで、
ブドウ糖は体の中に吸収されやすい形態なので重病を病んでる人のはやい気力回復には良いらしいです。
後、血液の流れをよくなるようにするので、スタミナ増進に利用され、
中国ではぶどうが心臓を強くする食品として知られているそうです。
そして貧血症改善や食欲増進の為、ほしぶどうやぶどう酒を作って食べたりということらしいんですね。
そして、はやい体力増進のためには生で食べるのがもっとも良いと。
この話は昔、うちの式から聞きました。そこで、今回のネタになったわけですねー。
さて、では今回はここらへんで。ではでは。