『darkness servant』
プロローグ
香港警防隊で休暇をもらった恭也と美沙斗。
しかし、恭也はまだ仕事が残っており、休暇は明日からなので一足先に美沙斗だけが海鳴へ戻るのだった。
これが後の命運を分ける事になるなど、この時には知るよしもなく。
翌日、帰国した恭也であったが、自宅へと向かう道すがら周囲の様子に異変を感じる。
気のせいかと思いつつ帰宅した恭也を待っていたのは、立ち入り禁止のテープが張られた高町家。
いや、そこに家と呼べるものはなく、ただ残骸と成り果てた黒い何かしかなかった。
頭の中が真っ白になり、呆然とする恭也の耳に警察官らの話し声が自然と入ってくる。
いや、正確には立ち入り禁止とされた向こう側にいる警察官の声が聞こえる訳ではなく、
恭也の目が自然とその口の動きを読んでいた。
「ガス爆発らしいが……」
「それにしても、ここまで吹き飛ぶものなのか。
しかも、周りには殆ど被害も出ていないし」
「上からの通達ではそうらしいがな。まあ、俺らは現場で出来る事をするしかないだろう」
「そうだな。しかし、同じ街でこう何件も同じ事件が同じ日に発生するなんてな。
ガス管が老朽しているんじゃないのか」
「それも含めて調べるんだよ」
その言葉を読み取った瞬間、恭也は特に考えることもなく走り出していた。
商店街の中を走り、その途中で翠屋の周囲も高町家と同じように立ち入り禁止のテープと警察官の姿を目にし、
それでも足を止めずに桜台の長い坂を上りきる。
そこから少し走り、普段ならこれぐらい大した距離でもないのにやけに煩い鼓動を耳の奥に聞きながら、
恭也は嫌な予感が外れてくれと祈るように顔を上げ、再び絶望を抱く。
かつて、さざなみ寮と呼ばれる騒がしくも楽しい女子寮があった場所は、
やはり高町家や翠屋と同じようになっていた。
足元から力が抜け、思わず地面に膝を着く恭也。だが、それでも立ち上がり、恭也は神社へと向かう。
そこに行けば、少しドジだけれども優しい巫女が笑顔で出迎えてくれるかもしれないという儚い希望を抱き。
だが、現実に待っていたのは、そこでもまた紺色の制服を着て何やら作業をしている警察官の姿であった。
正月には大勢の人で賑わっていた境内は見るも無残な姿を晒していた。
警察官に気づかれないよう、力ない足取りでその場を立ち去る恭也の感覚に、懐かしい気配が感じられる。
こんな状況でありながら、いや、むしろこの様な状況だからこそか、
無意識にいつも以上に周囲を警戒していたらしい、その更なる実戦で鍛えられた感覚が掴んだ気配。
そこに一縷の希望を見出し、恭也は生い茂る木々を掻き分けて奥に踏み入る。
気が焦り、先に先にと進むうちに何処かで引っ掛けたのか、幾つかの小さな傷も出来ていたが、
そんなものを気にも留めず進む。ようやく、恭也は木々に囲まれた中、小さく開けた場所へと辿り着く。
本当に小さな場所で、人一人分ほどのスペースしか開けてはいない。
だが、そこに居た人物を見て恭也は神に感謝したい気持ちにもなる。
僅かに頬を緩めつつ、恭也はその人物へと近づく。
「なのは、久遠、無事だったのか。一体、何が起こったんだ?
他の皆はどこに逃げたんだ?」
恭也が近づいても、二人は何も言わない。
なのはは目を閉じたまま、子供姿の久遠は怯えたように身体を震わせ、なのはを抱き締める手に力を入れる。
「もしかして、なのはは寝ているのか?
こんな状況でも寝ていられるなんて、ある意味大したものだな。
久遠、そんなに怯えないでくれ。俺だよ、恭也だ」
なのはの顔に血の気がない事を見ながらも、恭也はその最悪の事態を認めたくはないとばかりに二人に近づく。
だが、その足取りはやけにゆっくりしたもので、ほんの数歩分の距離がなかなか縮まらない。
そんな中、ゆくりと涙に濡れた頬を拭いもせず、久遠が振り返り、
目の前に居るのが本当に恭也だと知ると力が抜けたように倒れ込む。
今までゆっくりと近づいていた恭也であったが、それを見て急ぎ駆けつけて背中から抱きとめる。
抱き起こした久遠の身体は、黒く炭化しており、流れたであろう血液でさえも凝固している。
だが、その上から新しい血が流れ、黒い身体を紅く染める。
その久遠の肩越しに見えたなのはの身体は、もっと悲惨で下半身は見当たらず、顔以外は完全に炭化していた。
恭也はそれを見て狂いそうになるも、腕の中にいる久遠が苦しげな声で、
それでも必死に謝る言葉を聞いて気を取り直す。
「なのは、まもれなかった」
泣きはらした目は腫れ上がり真っ赤に充血している。それでも、尽きる事なく流れる涙が頬を伝う。
それでも、久遠は何かを伝えようと苦しげに言葉を途切れ途切れながらも伝える。
昨日の夜、なのはの所に泊まっていた久遠は嫌な予感がして飛び起きたらしい。
直後聞こえた爆発音に、久遠は大人へと変化してなのはに覆い被さった。
そこで記憶が途切れ、次に気づいたときは体中の痛みと腕の中に庇ったなのはの顔だけが目に映る。
重いものに圧迫されていると気づき、久遠はなのはを抱いたまま上だと思う方へと力を振り絞って抜け出し、
そこで惨状を目の当たりにした。つまり、高町家がなくなっており、誰の気配も感じられないという惨状を。
怖くなった久遠だが、腕の中にいるなのはの事を思い出し、そちらに目を落とし、
「……なのは? ねぇ、なのはおきて」
もうなのはが起きる事はないと理解していながら、それでも久遠はなのはに呼びかける。
が、それも長くは続かなかった。
遠くから人の気配とサイレンの音が聞こえ、久遠は自身も致命傷と言えるほど傷付いた体で、
なのはの身体を抱き上げ、この場所まで逃げてきたのだ。
そこまで語ると、久遠は疲れたように目を細める。
「くおんも。すこしねむる」
「待て、まだもう少し起きてるんだ久遠」
誰の目にも助からないと分かる久遠の身体を前にしても、恭也は助けようとする。
だが、そんな恭也の左手を弱々しく握り、久遠は小さく笑う。
「恭也が無事でよかった」
そう言って何の屈託もない笑顔を残すと、久遠は静かに目を閉じる。
そして、その目が再び開かれる事はなかった。
どのぐらいそうしていたのか、恭也は屈んでいた足が痺れ、
腰が痛みを訴えても久遠の身体となのはの身体を抱き締めていた。
ポツリポツリと振り出した雨に、ようやく恭也は次なる動きを見せる。
頭上を覆う程に生い茂る木々のお蔭で、殆ど雨が落ちてこない茂みの中、
恭也は一本の大きな木の根元に二人を横たわらせる。
その木の根元に手を着けると、穴を掘り出す。
硬い地面の感触に怯むことなく、爪を立てて掘って行く。
血が滲もうが、爪が剥がれようが黙々と。だが、手ではやはり限度があり、ようやく恭也はそれに気づく。
「待っていろ」
恭也はそう言うと二人をその場に残して立ち去る。
次に恭也が戻ってきた時には、その手にはスコップが握られており、それで再び穴掘りを再開する。
「本当ならちゃんとした墓を、父さんと同じ所に入れてやりたいんだが、暫くはここで我慢してくれ」
警察に知らせるという考えは恭也にはなかった。
久遠は特に死亡解剖にまわされると色々と問題もあるだろうし、
そもそもなのはの身体をこれ以上傷つけられるのが嫌だったから。
既に原因は判明している。あの惨状に、狙われた場所。つまりは、自分たち御神の生き残りを狙った爆弾テロ。
ならば、警察に頼ったところで既に何の情報も得られないだろう。
それは十数年前の御神宗家の結婚式の事件で分かっている。
もしかすると、警察の上層部にさえ相手の手が伸びている可能性もある。
だとすれば、ここからは自分がすべき事だと。
復讐に走った、あの時の美沙斗の気持ちが皮肉なことによく分かってしまった恭也は自嘲めいた笑みを見せる。
美沙斗のように復讐に走り、無関係な人を殺すわけにはいかない。そんな事は誰も望まないと分かっているから。
だから、自分は今居る香港警防隊の力で復讐を誓う。
復讐自体、誰も望まないかもしれないと分かっていながら。
「……いつか必ず戻ってきて、ちゃんとしてやるからな」
かなり深い子供二人が入れるほどの穴を掘り終え、恭也は久遠を、次いでなのはを埋める。
その際、炭化したなのはの腕が何かを守るように胸の前で組まれているのに気づき、慎重に腕を広げる。
中から出てきたのは、身体全体で庇ったから、あの爆発の中にあったのにも関わらず、
全くの無傷で残っていた一振りの小太刀。いや、小太刀サイズの練習刀であった。
香港警防隊に入る事を決めた恭也に、なのはが珍しくねだってきたものであった。
当初は渋った恭也であったが、絶対に振らないことを条件にあげたものであった。
恭也が小さい頃から使ってきた練習刀は、刃こそないものの玩具と言うには危なすぎるものである。
何故、こんなものを欲しがるのが不思議がる恭也に、なのはは照れながら、
「お兄ちゃんがずっと小さい頃からやってきたものでしょう。
だからこれだと、すぐにお兄ちゃんを思い出せるし、傍に居て守ってくれるような気がするの」
そう言ってはにかむなのはの頭を照れ隠しに乱暴に撫でた懐かしい思い出を思い返しながら、恭也は小さく呟く。
「……結局、俺はお前を守ってやれなかった」
悔恨の念を多分に含みつつ、恭也はその練習刀をなのはの腕に再び握らせ一緒に埋める事にする。
最後に久遠となのはの頭を撫で、なのはのリボンを一本だけ外してポケットに仕舞うと、二人に土を被せて行く。
二人を完全に埋葬すると、恭也は現状を把握すべく再び街へと繰り出し、新聞を何部か買う。
公園の雨宿りが出来るベンチでそれらを広げ、恭也は目を見開く。
他にも郊外の屋敷、海鳴病院などでも同様の爆発があったと書かれた記事を穴が開くほど見つめ、
恭也は震える指で知り合いに高校時代からの悪友へと電話を掛ける。
だが、電話は一向に繋がらず、ありきたりなアナウンスを流すだけの電話を切る。
「俺に関わった全てを壊すつもりかっ!」
腹立ち紛れに新聞を力任せに近くのゴミ箱に放り投げ、けれども頭の中では冷静にどう動くかを弾き出す。
まずは郵送で送った自分の武器を取り戻さなければならない。
時計で時間を確認し、そろそろ届く時間帯だと知ると、
恭也は雨の中、傘もささずに高町家のあった場所へと向かう。
今、警察官にその荷物を見られるのも困る。ちゃんと手続きをしたものだが、現状が現状だ。
万が一という事も考えなければならない。
中には知っている人も居るかもしれないが、今、押収される訳にはいかない。
再び高町家へと戻ってきた恭也は、こちらに気づいた警察官が声を掛けるよりも早く、配達車を見つける。
近辺が封鎖されて困った顔を見せる運転手に近づき、
「高町恭也ですが、俺宛ての荷物ですよね」
恭也の言葉に運転手は助かったとばかりに車を降り、恭也宛ての荷物を手渡す。
伝票にサインをもらって去っていく車を見送る恭也に、近くに居た警察官が声を掛ける。
先ほどの会話から、恭也があの家の住人だと知り、生き残った者から証言を取ろうとする。
だが、そんな警察官の質問を制するように、恭也は淡々と静かな口調で告げる。
「残念ですが、俺は何も知りません。今日、帰ってきたばかりなんです」
その静かな口調に薄ら寒いものを感じつつも、帰宅していきなりこの惨状では仕方ないかと判断し、
とりあえずは恭也に一緒に来てくれるように頼む。
だが、恭也はその警察官に背中を向けると、
「すみませんが、そんな時間はないんです」
その冷たい眼差しに気圧され、警察官が呆然と立ち尽くす間に恭也はそのまま雨の中へと消えていった。
数日後、恭也が警防隊に戻ってみると、そこも海鳴と同じような惨状になっていた。
ここだけではない、他にも街頭のテレビから流れるニュースでは、
イギリスの大通りで政治家を狙ったものやCSSまでもが爆発した事が報じられていた。
組織としての力も仲間も失った恭也は、それでも諦めることなく一人で動き始める。
その心には既に何の感情もなく、ただ目的を達成する強固な意志のみを宿して。
それから数年後、龍に関わる者は大小を問わずに狩られ始める。
黒一色に身を包み、ただ左腕のみ白いリボンを巻いた剣士が恐れられるようになる。
更に二十数年ほどの歳月が流れ、龍はその存在を地上から完全に無くす。それに関わる者全て残らず。
こうして、全てをやり終えた恭也は、再び海鳴のなのはと久遠が眠る場所へと戻ってきていた。
その姿は昔と全く代わらず、ただその瞳は何も移していないかのように虚ろなままに。
二人の前に立ち、恭也は左腕の袖を捲る。
そこにはまるで闇が染み出してきたかのような真っ黒な色で、
左腕全体に纏わり着くように不思議な文様が描かれていた。
「久遠、お前のお蔭で俺は年を取る事もなく、剣士として衰退せずに目的を達成できた」
数年間一人で戦い続けてきた恭也は、ふと自分が年を取っていないのではと感じたのだ。
年齢からくる衰退が起こらないばかりか、昔よりも遥かに頑丈になった身体、傷の治る速さ。
どれも左腕の紋様が出来てから、つまりはあの海鳴を襲った事件以降からであった。
だからこそ、恭也は神咲家へと秘密裏に接触し、己の左腕を見せたのだ。
結果、恭也の左腕には久遠の祟りが憑り付いていた。
祓おうと申し出た退魔士の言葉を断り、恭也は今でもこうして祟りを身に宿している。
これは別に恭也に害を成すものではないと分かっていたが、
何人もの退魔士に妖魔と間違われそうになった事もあった。
それでも、こうして何とか生き延びて遂に目的を達成できた。
だが、全てを終えて残ったのは何もなく、ただ虚しい気持ちが、いや、それさえも恭也の中には湧かない。
昔以上に感情の出なくなった顔に、感情そのものを殆ど感じる事無く平坦と化した心。
そして、ただ血に染まりつづけたその両手のみが残っただけ。
それでも悔いはなく、恭也は一人静かになのはと久遠に手を合わせる。
この先、自分に寿命があるのかどうかも怪しいが、
とりあえずは、なのはと久遠を士郎と一緒の場所へと移す事に決め、二人を埋めた土を掘り返す。
既に骨と化し、その骨さえも殆どが分解されているが、それでも周辺の土と一緒に持ってきた壺へと移し終える。
後に残されたのは、鞘に収まった練習刀一本。
これも一緒に埋めるかと手に取り、恭也は小さな違和感を覚える。
それが何なのか分からないままに鞘から引き抜き、
「全く錆びていない?」
土の中に数十年に渡り埋まっていたにしては、やけに綺麗な状態だと気付く。
まるで新品のように汚れ一つ見せない練習刀の刀身を見詰め、そこになのはの気配を感じる。
気でも狂ったかと思ったが、霊刀という例もあると呼びかける。
だが、答えは返ってこない。僅かに覗いた希望を再び絶望で閉ざし、恭也はその練習刀を腰に吊るす。
やはり、僅かだが感じられるのはなのはの気配。
祟りに憑かれた所為でか、多少の霊感を得た恭也はその練習刀からなのはの魂のようなものを感じる。
霊刀のようになのはの意志がある訳ではなく、ただそこに気配を感じる程度。
長い間大事にされた物に魂や精霊が宿って付喪神となるという話を思い出し、恭也はそう信じることにした。
真偽は分からないが、大事そうにその練習刀を撫でる。
「菜乃葉」
名もない練習刀にそう呼び掛けると、まるでそれに応えるように練習刀のなのはの気配が一瞬だけ強く感じられた。
気のせいかもしれないが、この時よりこの練習刀は菜乃葉と名付けられたのである。
その後、夜になるのを待って恭也は二人を入れた壺を士郎の眠る土地に埋める。
誰も訪れる者のなくなった墓はかなり汚れており、恭也はただ黙って綺麗にしていく。
「……俺だけが残ってしまった」
全てを終えて手を合わせるなり、恭也はポツリと漏らす。
その声を聞く者もなく、また答える者もない中、それっきり口を閉ざす。
じっと黙ったまま手を合わせていた恭也は、やがてゆっくりと立ち上がる。
最早、行く先もする事もない。どうするのかという考えさえも浮かばず、足の向くままに歩き出す。
そんな恭也の前に、奇妙な物が。
それは全身を写す姿見にも似た何かだった。
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