『マブハート』
プロローグ
「……んん。もう、朝か」
目覚めの良い恭也にしては珍しく、すぐに起きだせずにいた。
それもそのはずで、昨夜は鍛錬から帰り、美由希の後にシャワーを浴びたのが一時過ぎ。
その後、今日提出しなければならない課題を思い出し、寝たのはほんの二、三時間前なのだ。
これが鍛錬などで遅くなった場合はまた違うのだろうが、
学業を遅くまでしていたというのが悪かったのかもしれない。
などと、大よそ学生の言葉とは思えないような事を思いつつ目を開ける。
まだまだ日中は暖かな日もあるが、やはり秋も深まり朝夕はそれなりに冷える。
その空気の冷たさで目をはっきりさせようと布団を跳ね除け、胸一杯に息を吸い込む。
と、その鼻腔に普段の恭也の部屋からは決して匂わない、甘さの混じった香が漂う。
訝しげにもう一度鼻をひくつかせてみるが、どうやら間違いではないようだった。
同時に、布団を跳ね除けたにしては温かい。
布団の温もりかとも思ったが、その温もりは主に一箇所、恭也の右隣から感じられる。
今更ながら、恭也は右腕に柔らかな感触があるのに気付き、顔を横へと向ける。
「#$%A$Y!」
恭也は声に鳴らない声を上げそうになり、それを押さえ込む。
いや、実際には驚きのあまり声などは出ていなかったのだから、取り越し苦労というものだったのだが。
ともあれ、恭也は隣を見て目をぱちくりさせる。
そんな恭也の動きに気付いたのか、恭也の隣りがもぞもぞと動く。
「ん、もう朝か。しかし、お主は早いのだな」
「…………」
恭也は無言で横を、正確には隣り、それも同じ布団で眠る少女をじっと見詰め続ける。
恭也の右腕に抱きついて眠っていた少女は、じっと見詰められて頬を紅くする。
「そんなに見詰めるでない。流石に、照れる」
恥らう少女の美しさに見惚れつつも、恭也は現状が全く理解できていない。
右腕に当たる柔らかな感触もそれに拍車を掛け、恭也の頭の中は真っ白になる。
そこへ、恭也を現実に引き戻す声が部屋の外から聞こえる。
「恭ちゃん、どうしたの? もう鍛錬の時間、結構過ぎてるけれど」
「ほう、鍛錬か。私の事は良いから、行くがよい」
「あ、ああ。…じゃなくて、あなたはだ…」
少女へと身体を向けようとすると、当然腕も動く訳で、そして、恭也の右腕は今、
少女が胸に抱えるように両手で抱き締めており、恭也の動きに合わせて腕が少女の胸の間へと入り込む。
「んっ。恭也、そなたは昨夜といい、少し乱暴だな。
いや、別に責めている訳ではないぞ。ただ、女性の胸というものは繊細かつ…」
何やら語り始めた少女を呆然と見る恭也の耳に、返事がない事を訝しんだ美由希が声を掛けてくる。
「恭ちゃん、開けるよ?」
「っ!?」
言いながら扉が開かれる。
恭也は思わず、咄嗟に少女もろとも布団を掛けて隠れる。
その動作を見ていなかった美由希は、未だ布団の中にいる恭也を見て不思議そうな声を上げる。
「あれ? まだ寝てるの?
恭ちゃんが寝坊なんて珍しいというか、初めてじゃない?」
言いながら、美由希の気配が恭也の横へと移る。
その手が布団に伸び、捲り上げようとする。
それを恭也は強引に引っ張り返す。
その反応を見て、美由希が恭也が起きたのだと解釈すると、もう一度声を掛ける。
「恭ちゃん、起きたの?」
「ああ。起きた」
「じゃあ、早く鍛錬に行こうよ」
「さ、先に行っててくれ。後から行くから」
「どうしたの? ひょっとして、風邪?
だったら、無理しなくても良いよ」
美由希の言葉にしめたとばかり肯定しようとした恭也だったが、先に隣りの少女が反応してしまう。
「何、それは真か? 大丈夫なのか」
「あ、ああ。別に風邪ではないからって、何を喋っている!?」
不意に聞こえてきた第三者の声に、恭也のみならず美由希も驚く。
美由希はそれを追求すると共に、その手を掛け布団へと伸ばす。
「恭ちゃん、今の声、誰。女の人の声みたいだったけれど。
よく見れば、布団のふくらみ方も変だし。恭ちゃん、捲るよ!」
「止めろ、美由希。今のはきっと風邪による幻聴だ」
「そんな訳ないでしょう。私は風邪を引いてないんだから!
もし仮に、恭ちゃんが風邪を引いて幻聴を聞いたのだとしても、それが私に聞こえるはずないでしょう!」
言うと同時に布団を取り上げ、そこに広がる光景に美由希は固まる。
「…………きょ、恭ちゃん?」
「ご、誤解だ。これは何かの間違いだ」
「ふう。朝からこうも騒がしいとは。やれやれだな」
少女は抱えていた恭也の腕からようやく離れると、上体を起こしてうんざりしたように首を振る。
その際、少女の寝巻きである浴衣の合わせ目から覗く胸の谷間や、白いうなじなどに恭也は思わず赤面し、
すぐさま目をそらす。
その反応が、美由希の何かに火をつける。
美由希は底冷えするほど低い声を出しながら、その手を背中へと持っていく。
「きょ〜〜ちゃんのぉぉぉ……」
少女の言葉を誰も聞いていないのか、いや、聞く余裕もないのか、美由希は引き抜いたそれを振り下ろし、
恭也はその場から飛び退く。
同時に、その眼前を白銀が通り過ぎる。
美由希の絶叫と共に。
「馬鹿ーー!」
◇ ◆ ◇
あの後、暴れる美由希を落ち着かせている間に、謎の少女は居なくなっており、
二人はいつもよりも少し遅いが鍛錬へと出てきていた。
「まったく信じられないよ。女の人を連れ込むだなんて」
「だから…。それはそうと、何故、そこまでお前が怒るんだ?」
言って溜め息を吐きつつ、ふと浮かんだ疑問を口に出す。
途端、美由希はギクシャクとした動きになり、簡単に一本取られる。
「ず、ずるいよ」
「油断するお前が悪い。…にしても、今朝の女性」
「何、やっぱり心当たりがあるの!?」
「幾ら疲れていたとは言え、簡単に侵入を許すなんて。
それに、気が付いたら居なくなっていた事と考えると…。
まさか、幽霊」
「ちょ、や、止めてよ恭ちゃん。朝からそんな事言うの」
「しかしだな」
「男らしくないよ。ちゃんと非を認めないと」
「本当に身に覚えがないんだが。その前に、別に非でも何でもないだろう。
お互いに同意していたのなら、お前にそこまで言われる覚えはないはずだが」
「うっ。そ、それは。って、同意って。やっぱり知り合い」
「いや、本当に知らん。と、その話はお終いだ。そろそろ戻るぞ」
まだ不満そうな顔をしつつも、これ以上は無駄だと悟ったのか、美由希は大人しく従うのだった。
◇ ◆ ◇
美由希とギリギリまでドタバタしていた所為か、珍しくギリギリの登校となった恭也へ、
クラス委員長の榊が話し掛けてくる。
「おはよう、高町くん。珍しくギリギリね」
「ああ、おはよう委員長。まあ、ちょっと色々あってな」
「別にちゃんと来てるから良いけれどね。
まあ、例によって月村さんはまだみたいね」
「あいつは本当にギリギリだからな。まあ、そろそろ来る頃だろう」
二人して笑っていると、その噂の主が現れる。
「あれ、どうしたの二人して」
「いや、別に」
「そうそう、気にすることじゃないわよ」
「ふーん。まあ、いいけど。あ、そうそう。そう言えばさ」
言って忍が話し出すと、廊下からガランゴロンという鈴の音が響いてくる。
「珠瀬さんね」
「恭也が付けたあの鈴、いい加減に外せばいいのにね」
「まあ、俺も冗談のつもりだったんだがな。
まさか、あれほど気に入るとは思わなかった。まあ、たまらしくて良いんじゃないか」
話している間にも鈴の音は大きくなっていき、教室の扉が勢いよく開く。
「ま、ま、ま…」
「たま、とりあえず落ち着け」
「は、は、はいぃ」
恭也の言葉に深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着くと珠瀬は恭也を見上げる。
「間に合いました」
「…ああ、そうだな」
苦笑しつつ答える恭也に、忍や榊も苦笑する。
そこへ、新たな人物が姿を見せる。
「彩峰か。珍しいな、こんな時間に来るなんて」
「……そう?」
「ええ、珍しいわよ。一体、どういう風の吹き回しかしら?」
彩峰へといきなり噛み付かんばかりに言い寄る榊を無視し、彩峰は恭也を見る。
「気紛れ?」
「いや、俺に聞かれても」
「というのは嘘。本当は、今日は売店で焼きそばパンが特売。
今から並ぶ」
「って、待ちなさい! もうすぐHRが始まるのよ!」
「ちっ!」
榊は素早く彩峰の腕を掴んで席へと引き摺っていく。
それを呆れたように見遣りつつ、担任の神宮司まりもの登場により恭也たちも席に着くのだった。
「さて、今日は皆さんにお知らせがあります。
三年のこの時期ながら転校生を紹介します」
「珍しいこともあるな」
「そうなのよ。朝、私が言おうとしていたのは、この事なんだけれどね」
「そう言えば、何か言おうとしていたな」
「まあね。朝、職員室の前を通る時に聞いたのよ。
結局、言えなかったけれど」
忍と小声で話しているうちに、件の転校生が教室へと入ってくる。
その姿を見た恭也は、声を無くしてただ呆然と教室の前を見る。
そこには、恐らく刀の入っているであろう袋に手を置き、背筋をまっすぐに伸ばした朝の少女が居た。
「朝の幽霊……?」
「恭也? どうかしたの?」
そんな恭也の不審な態度を不思議そうに見ていた忍の耳に、転校生の自己紹介の声が聞こえてくる。
「御剣冥夜だ。以後、見知りおくがよい」
「それじゃあ、席は高町くんの隣りで」
「承知している」
冥夜は真っ直ぐに恭也の前まで来ると、隣りの席に腰を降ろすことなく、そこで立ち止まる。
「そなたに感謝を。昨夜は、夢心地であった。
傍らに恭也、そなたの温もりを感じて、眠れたのだからな。
そのことを、大変嬉しく思うぞ」
途端、教室の空気が間違いなく凍り付く。
数人の女子生徒からの視線と、ほぼ全員に近い男子の視線を一身に受け、恭也は冷や汗を流す。
そんな周囲の空気に気付いていないのか、冥夜と名乗った少女は席に着く。
HRが終わり、最初の授業までの間にと、忍たちが恭也に詰め寄る。
「恭也、一体どういうことよ!」
「高町くん、どういうこと?」
「高町、やるね」
「恭也さん、御剣さんとはどういう関係なんですか?」
「…いきなりだな、お前たち」
「そんな事はどうでも良いのよ! さっきの言葉の意味はなにって聞いているの!?」
忍が机をバンバンと叩き、恭也へと詰め寄る。
そこへ、教室の扉が開いて美由希が顔を出す。
「恭ちゃん、朝言い忘れていたんだけれど、今日のお昼……。
って、ああーー! 何で、どうして、あなたがそこにいるの!?」
「何々? 美由希ちゃん知っているの?」
忍がすぐさま美由希を教室へと引っ張り込んで尋ねると、美由希は特に考えることもなく、
驚きのまま告げる。
「知ってるも何も、恭ちゃん、どういうこと!
朝、知らないって言ってたのに!」
「だから、俺にも何がなんだか…」
「だったら、何で、恭ちゃんと一緒の布団で寝ていた彼女がここに居るのよ!」
『っ!? な。なにぃぃーーー!!』
G組の生徒が一斉に上げた悲鳴にも似た声は、大きく学校に響く。
そんな中、恭也は美由希を手招きして呼ぶと、その頭に拳骨を落とす。
「いたいぃぃ! な、なにするの!」
「何もくそもあるか! お・ま・え・は、何を大声で言ってる!」
言って何度も拳骨を落とす。
「や、やめ、きょ、恭ちゃん。ちょ、まじで止めて、お願い」
涙目で頭を押さえる美由希を睨みつつ、恭也は大きな大きな息を吐き出す。
「恭也、このクラスは中々楽しそうだな」
「そうか? まあ、確かに今日は騒がしいけれど。
って、御剣さん、どうして俺の名前を?」
「冥夜で良い」
「いえ、しかし…」
「冥夜でよいと申すに」
「ですが、御剣さん」
「冥夜でよいと言っておろうに。なぜ、名を呼んでくれないのだ? 」
徐々に近づいてくる冥夜に、恭也は少しだけ後退りながら躊躇う。
その躊躇いを見て取った冥夜は、悲しそうな顔をする。
「この願い、どうしても叶わぬというのか」
「えっと、め、冥夜」
「っ! 何だ、恭也!」
名前で呼んだ途端、冥夜は嬉しそうに恭也へと更に詰め寄る。
ぴったりと寄り添う冥夜に、恭也はやや上ずった声を上げる。
「その、ちょっと近づき過ぎじゃ…」
「何を申すかと思えば。私とそなたの距離に、近すぎるなどと」
「恭ちゃ〜〜ん?」
殺気を纏った美由希、いや、忍までもが恭也の前に立ちはだかる。
同様に、風紀がどうこう言いながら榊までも立つ。
少し離れた所では、彩峰が楽しそうに事の成り行きを見守り、珠瀬はおろおろとあちこちを見渡す。
そんな騒乱の中、冥夜は美由希の殺気に反応したのか、その手を包みに伸ばす。
美由希は剣士の勘からか、一足飛びに後方へと飛び退き、冥夜の握った獲物の間合いの外へと出る。
それに感心したように短く声を上げつつ、その袋を開けようとする冥夜の手を恭也が押さえる。
「よせ、冥夜。こんな所で、そんなものを出すつもりか」
「そうであったな。許すが良い。予想外の反応に、つい体が反応してしまったのだ。
だが、それもこれも、そなたが窮地と思えばこそ。
そなたの窮地は私の窮地だからな。そなたのために、私はあるのだ」
その台詞が益々火に油を注ぐこととなっているのだが、冥夜は気付いた様子はなかった。
恭也は理由は分からないまでも、美由希たちの反応に朝から疲れたように肩を落とす。
と、その視線が冥夜とぶつかる。
見れば、冥夜は少し頬を紅くし、照れたように恭也の顔と下へと視線を忙しなく動かす。
正にもじもじといった感じで照れる冥夜に、恭也も何故か照れつつ、その視線を落とせば、
そこには未だに冥夜の手を押さえる恭也の手があった。
「すまん」
「いや、良い。むしろ、もう少しこのままで」
「えっ?」
「あ、いや、すまん。確かに、このままという訳にはいかんからな。
だが、安心するがよい。
今、この手が離れようとも、そなたと私は絶対運命という固い絆で結ばれているのだから」
そんな二人の様子に、美由希と忍の目付きが更に上がっていく。
教卓では、既に一限目の授業の教師が来ているのだが、この雰囲気に口を挟めずに居た。
こうして、一人の転校生の出現により、恭也の日常は更に騒々しいものになっていくのだった。
つづく
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