『incomprehensible ex libris』
第ニ章
1
9月18日(月)
PM 7:00
──東京某所のとあるオフィスビル前──
ここ、東京のとあるオフィスの周りは夜だというのに何やら騒がしい。
ビルの入り口付近に車が複数台止められており、その周辺で数人の男たちが話している。
よく見ると止めてある車は全てパトカーや覆面車で、夜の闇がこのビルの周辺だけ赤い光によって照らされている。
「くそ、一体どうなってやがる」
覆面車の近くにいた一人の男がそう言い放ちながら背広の内ポケットへと手を入れる。
そこから取り出したタバコを口にくわえ、ライターで火を点けようとした所で一人の刑事に呼ばれる。
「北山警部、現場検証の方が終りました」
「そうか、なら次は・・・・・・」
北山と呼ばれた中肉中背の刑事がまだ若い刑事に幾つかの指示を出す。
その指示を実行するためにビルの中へと走っていく若い刑事の背中を見ながら、北山はタバコに火を点ける。
一度、肺一杯に吸い込むとゆっくり紫煙を吐き出しながら、今回このホテルで起きた事件を振り返る。
事の起こりは午後3時半頃に掛かってきた一本の電話だった。
このビルに複数ある会社の一つに3時半に面会の約束をしていたという取引先の会社員からのそれは、すぐには要領の得ない物であった。
人がどこにもいないというのである。
初めは警察も取り合わなかったのだが、3時前に一度、電話でアポイントの時間を確認をし訪れているのでいないはずがないと主張し、
さらにはそのオフィス内だけでなく、ビル全体に人影を見ないという会社員の話に警察は現場へと駆けつけた。
そして、そこで警察官たちが見たものは、つい先程までは人がいた様な状況のまま誰一人としてどこにもいないという奇妙な状況だった。
またその後の聞き込みや調査などで判った事には、3時少し前まではこのビル内には人がいたという事だけで、
3時以降このビルから出てくる者を見たという目撃者は今の所、見つかっていない。
これらの事から、何らかの事件が起こったのは間違いがないとみて警察も本格的な捜査に取り掛かった。
しかし、先程の刑事から聞いた限りでは手がかりになるような物は、全く見つかっていない。
そもそも、30分足らずの時間でこのビル内にいた数百人の人間をどうやって攫ったのか、
また、犯人の目的は何なのか。これらが全くもって不明なのだ。
そして、つい先程この事件の対策本部が設置され、東京都内だけでなく全国の警察署に協力要請が発せられた。
「ふぅー。これ以上、厄介な事が起きなければ良いけどな」
北山は呟きとともに、吸っていたタバコを車の灰皿に押し付け、自分も現場へと向かって歩いて行く。
その背中をパトカーの赤い光が照らしていた。
2
9月19日(火)
AM 2:00
──日本海海上──
大陸から数十キロ先の沖合いに一隻の船が浮かんでいる。
その船底で数人の男女が、蝋燭を真中に置いたテーブルの周り集まり、何やら話し込んでいる。
「しかし思ったよりも上手くいったな」
「ああ、確かにな。この分だとまだまだやれそうだな」
「馬鹿な考えはやめておけ」
「そうよ、警察はともかくあの連中がいつまでも気付かないとは思えないわ。計画通り、後一回行動したらこの国から離れるのよ」
「ちっ、わぁーってるよ、んなことは。それより最後の場所はどこなんだ」
「最後の場所は・・・ここよ」
そう言って、蝋燭のすぐ近くに置かれていた地図上の一点を指差す。
3
9月19日(火)
PM 6:00
──海鳴市、翠屋──
昼はランチ目当てのサラリーマンやOL、昼を過ぎた後は学校帰りの学生たちで賑わう喫茶翠屋。
その翠屋も今日のこの時間になると大分落ち着き、空席を埋める客の姿がちらほらと見える程度である。
その奥の席に一人、コーヒーカップを手にしながら座っている人物がいる。
その人物はどこか涼しげな目をしており、肩口で揃えられている髪はまるで絹の糸のようなきめの細かい綺麗な銀髪の美しい女性である。
ときおりその目が店の出入り口である扉へと向かう事から誰かを待っているのだろう。
と、何度目かになる視線を扉へと向けた時、丁度タイミングよくその扉が開き、新たな客が店内へと入ってくる。
その客を迎えるべく店のウェイトレスが笑顔で挨拶をする。
「いらっしゃいませ、って恭也じゃない。どうしたの?」
「ああ、フィアッセか。いや、ちょっとここで待ち合わせ」
「Hi、恭也。こっちだよ」
奥の席に座っていた銀髪の美女が恭也へと声をかける。
「リスティと待ち合わせだったの」
「ああ。何か話があるらしい」
「ふーん。所で恭也、注文は何?」
「宇治茶アイスを大盛りで」
「もう、恭也ったら。はぁー、アイスティーでいいわね」
「ああ。レモンで大盛り」
「はいはい。マスター、オーダー入りまーす」
カウンターの奥にある厨房へと注文を伝えに行くフィアッセを横目で見ながら恭也はリスティの元へと歩いて行く。
そして、そのままリスティの向かい側に座ると用件を切り出す。
「それでリスティさん、今日は一体どうしたんですか」
「うーん、用件ね。ただ恭也に会いたかったからってだけじゃダメかい?」
「リスティさん、冗談はやめて下さい」
「相変わらず堅いね、恭也は。もう少し楽に生きないと損するよ。
折角、周りには好意を寄せてる可愛い女の子たちが一杯いるっていうのに」
「お言葉ですが俺は今のままで充分ですよ。それに俺なんかに好意を寄せてる子なんていませんよ」
「はぁー、自覚は全くなしか。こんなんじゃ、あいつらも苦労するな」
「はい、恭也。アイスレモンティーの大盛り」
リスティのその呟きは元々小さかった事と、丁度注文した品を持ってきたフィアッセの声によって恭也の耳には届かなかった。
フィアッセが立ち去ったのを確認した後、リスティは先程よりも幾分か声を落とし恭也に話を始めだす。
「さて、本題へと入るよ恭也」
その声に無言で頷き続きを促す。
「最近、と言っても昨日の事なんだけどね。全国の警察署に協力要請が出たらしい。
事件の内容は東京にあるオフィスビルで人が失踪したというものらしいんだ。
で、ただの失踪なら問題はまあ、あるにはあるんだけど、ここまで大規模にはならないだろ」
「ええ、確かにその通りですね。人が一人失踪したぐらいで全国の警察が動いていたら、
それこそ昔、父さんのせいで一月に一回のペースで全国の警察署が動いていたかもしれませんし」
「くっくく。恭也の父親はそんなによく失踪していたのかい?」
「ええ、そのようです。俺も詳しくは知りませんが、月に一回ぐらいの割合で突然いなくなってたみたいですよ。
俺を連れて全国を周っていた時も失踪に近い状態で、実家の方から連絡を取る事はできなかったと美沙斗さんが言ってました」
「ははは、なかなか面白い父親じゃないか」
「俺としてはあまり面白くはなかったですよ。父さんの家に行く度に、俺が祖父から小言を聞かされるんですから。
とりあえず、父さんの事は置いといて本題に戻りましょう」
「ああ、そうだね。恭也の子供時代にも興味はあるけど、それは次回の楽しみにしておこう。
さて、どこまで話したかな。」
「全国で警察が動いたって所までです」
「ああ、そうそう。その失踪した人数に問題があるんだ。1人や2人なんて数じゃない。
当時そのオフィスビルにいた人全員がいなくなったんだ。数百人の人間が皆、自分から失踪したとは思えない。
と、なると外部の人間による集団誘拐ってことになる。で、その犯行時刻は昨日の午後3時から午後3時半の間。
どうだい、恭也。ちょっとおかしいと思わないかい?」
「ええ。犯人が複数いたとしても、たった30分で数百人もの人間を誘拐できるとはとても思えません」
「そういう事さ。まあ、これが集団虚偽事件なら話は別だけどね。あいにく、この線もありえない。
つまり、もうすでに打つ手がないってことさ」
「はあ。で、なんで俺が呼ばれたんですか?誰かの護衛の仕事ならともかく、今の話を聞く限りでは役に立てそうもないかと」
「ああ、恭也を呼んだのは一つだけ確かめたい事があったからさ」
「確かめたい事?」
「ああ。回りくどいのは苦手なんでずばり聞くけど恭也以外で御神流の使い手はいないのかい?もちろん美由希や美沙斗は除いて」
「なっ」
咄嗟の事ですぐに答えられずに息を詰まらせる。
そして反論しようと口を開くが、リスティがかなり真剣な目をしているのを見て口を閉じる。
それから、再度口を開き、
「御神流は今、俺を含めてその三人だけです。でも、どうしてそんなことを」
「理由は2つある。1つはときおり恭也がやるあのとんでもない動き。あれなら30分あれば犯行が可能じゃないかと思ってね」
「それは無理だと思いますよ。あの技は神速といって動きを何倍にもしますが、長時間使用したり連続で使う事はほどんど無理です」
「だろうね。それは前にも聞いたからね。こっちの理由は半分以上こじつけみたいなもんだから。
本当の理由は2つ目の方なんだ。確か恭也の使う御神流は通称というか略称みたいな物だったよね」
「ええ、正式には永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術ですが、それがどうかしましたか」
「ああ、実は現場の指揮を取ってる北山警部と知り合いでね。現場の詳しい状況を聞きだしたんだけど、
そこに永全不動八門一派と書かれた書物が見つかったそうなんだ」
「それってどんな本なんです」
「いや、僕も中は知らない。でも、恭也も知らないって事か」
「ええ、美沙斗さんなら、もしかしたら何か知っているかもしれませんけど、今は仕事でどこにいるのか」
「そうか。恭也、悪いけど美沙斗と連絡がつき次第、この事を確認してくれないか?」
「ええ、判りました。あ、リスティさん。その本ですけど、なんとか手に入りませんか?」
「うーん、どうかな。一応、現場にあった遺留品として押収した物だろうし。そう簡単にはいかないと思うけど。
いいよ、何とかして手に入れてみる」
「ありがとう御座います、リスティさん」
「いいって、いいって。恭也にはいつも世話になってるからね。それに何か掴めるかもしれないしね。
でもまあ、今度何か奢ってもらおうかな」
「それでいいですよ。ただ、あんまり高い物は勘弁してください」
「ああ、期待してるよ。じゃあ、今日はここらへんで帰るよ」
そう言って席を立つリスティ。
しかし、すぐに何かを思い出したかのように恭也の横に立つ。
「そうだった。これを忘れる所だったよ。はい、恭也これ」
「これは?」
「ああ、この間の仕事の報酬だよ」
「ああ、この間の。でも、これは」
「遠慮はいらないよ、恭也。君は仕事を依頼されて、それをこなしたんだ。だったらその報酬を取るのは当然だろ」
「はい、では頂きます」
「じゃあ、今度こそ本当におひらきだ。後、この件はまだ公開されていないから、誰にも言っちゃだめだよ。
まあ、恭也なら心配ないだろうけど」
「ええ、わかっています」
リスティは恭也が頷いたのを見るとレジへと歩いて行く。その後ろを恭也がついて行く。
その事に気付いたフィアッセが急ぎレジへと向かう。
「リスティ、もうデートは終わり?」
フィアッセは顔に笑みを浮かべながら、恭也をからかう。
「フィアッセ、別にデートではない」
「あれ、そうなの。それは残念ね、リスティ」
普段、リスティにからかわれているフィアッセはここぞとばかりに仕返しをしようとするが、リスティの方は落ち着いたもので、
その顔には笑みすら浮かべている。
「本当に残念だよ。でも、一緒にいた時間は短かったけど、その分とっても意味のある時間を過ごしたからね。
なあ、恭也」
「な、何を言うんですか」
「あれ?恭也はアノ話に全く興味がなかったのかい?かなり充実した時間を過ごしたと思うけど」
「え、ええ、それは否定しませんけど」
「恭也!リスティを何の話をしたのっ!」
「それは二人だけの秘密だよ。フィアッセにも教えられないね。ねえ、恭也〜」
言いながら恭也の腕に寄りかかるリスティを見てフィアッセの顔が険しくなっていく。
「ねえ、恭也。その話、わたしもしりたいなー」
「それは駄目だ」
「な、なんでよ」
「それは僕と恭也、二人の大事な秘密だからだよ」
さらに腕をとろうとするリスティを牽制しながら恭也の目はフィアッセの方を見る。
そこには笑顔を浮かべながらも目だけは決して笑っていないリスティがいた。
恭也の背中を冷たいものが流れていく。
「リスティさん、あまりフィアッセをからかわないで下さい」
「っちぇ。まあ、そろそろ許してやるか。フィアッセ、恭也にはこの間頼んだ護衛の報酬を渡しただけだよ。
極秘で来日した人の護衛任務だったから、あまり人に話せないんだよ。わかったかい?」
「この間、恭也が言ってた仕事の事ね。なーんだ」
「安心したかい?フィアッセ。これに懲りたら僕をおちょくろうとしない事だね」
「むー、それはいつもリスティがわたしのことをからかうからでしょ」
「失礼だな。いつもじゃないだろ、たまにだろ。それにいつもはフィリスだけだ」
「それは威張って言うことじゃないと思うけど」
フィアッセはあきれた様子でため息をつく。あきれているというより、何を言っても無駄だと諦めているのかもしれないが。
「じゃあ、そろそろ行くか。恭也はこの後、どうするんだい?」
「俺は少し店を手伝ってから帰りますよ」
「そうかい。じゃあ、恭也、フィアッセ、バーイ」
リスティは軽く片手をふりながら店の外へと出る為にドアを開ける。
そして、開けたドアから外へと出ようとした所で、上半身だけをドアから覗かせて少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「恭也、次のデート楽しみにしてるからね」
この一言を言い放ち、完全にドアから姿を消す。
その後に残されたのはドアを見つめたまま、ため息をつく恭也と肩を震わせながら微笑むフィアッセだった。
「きょーうーや♪デートって何のことかなー」
「ち、違う。そんなんじゃない。ちょっとリスティさんに頼み事をしたから、そのお礼に今度何かを奢る約束をしただけだ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
フィアッセは嘘は見逃さないと言わんばかりに恭也に近づき、その目を見る。
また、恭也も嘘はついていないとばかりに目をそらさずにフィアッセと向き合う。
傍から見たらお互いに見詰め合う恋人のようにも見える。
現に店にいた客の内、会計を済ませようとレジまで来た女性が、声をかけづらそうにしており、
伝票を持ったままその場に立ちつくし、店の天井や壁を意味もなく見ている。
そこへ横から第三者が現れる。
「あー、えーコホン。母さんとしては、息子と娘みたいな子が仲良くしてるのは嬉しいんだけど、
できれば別の場所でして欲しいなーとか思っちゃたりするんだけど。ねぇ、恭也、フィアッセ」
「え、あ、きゃっ」
「・・・・・」
フィアッセは桃子に言われて慌てて恭也から離れ、恭也は何も言わずに目をそらす。
「とりあえず、そういう事は仕事が終ってからにしてね。それだったら、もう全然邪魔しないから」
「誤解だよ、桃子。さっきのはそんなんじゃないんだってば」
「いいから、いいから。この鈍感で無愛想で無表情で、その上・・・」
さらにまだ続けて言おうとする桃子だったが、横から感じられる威圧感に口を閉ざしそちらを窺う。
「突然、黙るとはどうかしたか、高町母。遠慮せずに続きを」
「は・・・は、はははは。や、やーねー、続きだなんて。それよりも、速く仕事に戻らないと。
ほら、フィアッセ、さっきからお客さんがお待ちよ。レジの方をお願いね。
恭也も手伝ってくれるんなら、フロアーの方をお願いするわ」
言って桃子は厨房の方に戻っていく。
「はぁー」
ため息を一つついてから、恭也も手伝うべく準備を始める。
海鳴市は今日も概ね、平和な一日だった。
<to be continued.>